笑福亭仁智・上方落語協会新会長を迎え新年会員交流会 「次の時代」へ向け、繁昌亭リニューアルを表明

2019年新年会員交流会
上方落語協会 笑福亭 仁智しょうふくてい じんち・新会長が「次の時代」を語る
今夏に繁昌亭の大幅リニューアルオープン表明

表情豊かに話を進める笑福亭仁智氏

 関西プレスクラブの新年会員交流会が124日、大阪市北区のホテル、ヒルトン大阪で開かれ、上方落語協会会長の落語家、笑福亭仁智さんが「上方落語 次の時代へ」をテーマに講演した。仁智さんは講演の中で、上方落語の定席、天満天神繁昌亭(大阪市北区)について、6月に休館して改装し、7月にリニューアルオープンする計画を明らかにした。講演会後の懇親会には会員のほか、昨年の夏季会員交流会のゲストだった将棋の谷川浩司九段、招待者ら約120人が参加し、仁智さんと弟子の智六ちろくさん、大智だいちさんと歓談。落語談義に花を咲かせた。(宮田 一裕、田畑 悦郎)


■上方落語協会会長
 仁智さんの講演に合わせ、ホテルの広間に特別にしつらえた高座は高さ約1㍍。オクラホマミキサーの出ばやしに乗って登壇した仁智さんは開口一番、「私もいろんな高座をやらせてもらってますが、けっこう危険を伴う高さでございまして。ちょっとした緊張感がございます。景色はいいですね」と会場の笑いを誘った。
 場を温めた後、話題は昨年6月、会長に就任した上方落語協会に。先代会長の桂文枝さんの「辞意表明」に伴う会長選挙は会員1人につき1票を投じる互選制で、有力候補は笑福亭鶴瓶さん、桂春団治さん、桂きん枝(現小文枝)さん、桂米団治さんに仁智さんを加えた協会の副会長5人。仁智さん自身は「(会長になるとは)全然、考えていなかった」といい、投票前に若手噺(はなし)家と交わした、選挙の下馬評についてのやりとりを披露した。

 若手「ひょっとしたら(仁智さんに)票が一番集まるかも知れませんよ」
 仁智さん「何言うてんねん。ふさわしい人はほかにおるやないか。鶴瓶さんは前から副会長をやってんねん」
 若手「いや、鶴瓶さんは忙しいから…」(笑)
 仁智さん「どういう意味やねん!」(笑)

 この若手をたしなめたという仁智さんだが、投票結果は最多得票。師匠の笑福亭仁鶴さんに会長就任を報告すると、仁鶴さんは「ぼちぼちやりなはれ」とやさしく背中を押してくれたという。

特設の「高座」から話を始める笑福亭仁智氏


■繁昌亭リニューアル
 上方落語協会の第7代会長に正式に就任したのは201861日。その後、新体制発足のお祝い気分に浸る間もなく、仁智さんは相次ぐ災難に襲われた。
「ほんまにろくなことがない」というように、618日には大阪北部地震が発生し、大阪都心に向かう電車の多くが運休。繁昌亭はこの日も公演を予定していたが、お客のアクセス手段がなくなったことから、仁智会長は泣く泣く休館を決断した。繁昌亭の休館は069月の開業以来、初めてのことだった。西日本を襲った7月の豪雨では、繁昌亭の楽屋が浸水。9月には台風が相次いで襲来し、繁昌亭は計3日の休館を余儀なくされた。
 年明け以降も試練は続く。「年が改まれば、ツキも変わるやろ」と思っていた早々、繁昌亭の事務局長から電話が入り、今度は「天井からちょうちんが落ちてきた」(笑)。ちょうちんは建設時に寄付をしてくれた人たちの名を記したもので、業者に確認したところ、「経年劣化が進み、そろそろ寿命」と。客の安全のためにも、仁智さんは「取り替えないかん」と交換を決めたが、その数、約1200個。取り替え費用は約500万円に上るという。
 空調設備も老朽化が進んでおり、夏の蒸し暑さが来る前に交換することにしていたが、工事費用は人手不足による人件費高騰も手伝って約2500万円に上ることが判明。仁智さんが当初見込んでいた200万~300万円を大きく上回り、ちょうちん交換と合わせた総額は約3000万円。「もう笑うしかないですよ」との言葉通り、「今日のギャラが3000万円やったらよかったんやけど」と、会長就任早々の改修費用問題を会場の笑いで包みこんだ。


■災い転じて福となす
 空調工事には約3週間を要することから、今年6月の1か月間、繁昌亭を休館することを決定。この間、老朽化設備の改修に加え、狭かったロビーの拡張など施設全体のリニューアルを実施する計画だ。これに合わせて運営面でも昼席を指定席にするなど改革を実施する方針も明らかにされた。仁智さんは「お客さんのニーズに応えて、お客をもっと増やしていきたい」と、災い転じて福となす意気込みを示した。
 リニューアルと運営面での改革を明らかにするのは、この日が初めて。正式発表は4日後の128日の予定だったが、会場に集まった会員とマスコミ関係者にだけ〝特ダネ〟を提供するサービスぶりだった。

特設の「高座」から話を始める笑福亭仁智氏


■上方落語の起源
〝特ダネ〟を披露した仁智さんは講演テーマの「上方落語 次の時代へ」を語るにあたり、その歴史をひもとき始めた。
 江戸時代の西暦1700年前後、大坂で米沢彦八、京都で露の五郎兵衛が話に落ちをつけて笑ってもらう「落とし噺」を始めたのが起源という。その1世紀後、大坂で桂文治、江戸で三笑亭可楽が噺家を集め、寄席が始まった。
 「江戸時代後半から明治にかけて、夜中心の興行で大いにはやったそうで」
 東京では旦那衆の道楽のように、落語好きが新宿・末広亭や上野・鈴本演芸場など小規模の寄席をつくった。一方、大阪では吉本興業が商売として、大きな会場を経営する形を採った。

 ■盛衰
 大正時代に入ってラジオが登場し、落語は今で言う「鉄板コンテンツ」となる。ところが「(吉本興業創業者の)林正之助は、噺家がラジオに出たら家でただで聞けるから、お客さんは料金の要る寄席に来えへんようになる」と、噺家のラジオ出演を禁じた。
 そこに一人の人気者が出現する。「爆笑王」と呼ばれた初代桂春団治だ。彼は「借金王」でもあった。春団治は借金返済のためにラジオに出たい。吉本側は春団治を出させまいと社員をNHK大阪放送局に陣取らせ、見張っていた。だが、やってこない。すると、ラジオから落語が流れてくる。春団治がしゃべっていたのは、京都放送局だった。
 これを知った林正之助の怒りは頂点に。寄席はがらがらか、とのぞいてみると「ラジオで面白かった春団治はどんな男や。見てみたい」とお客がわんさか来ていた。メディアに出て人気が出ると、それ見たさに寄席にもお客さんが集まる︱。吉本興業のビジネスモデルの原型はこのころにできた。
 爆笑王は1934(昭和9)年に亡くなる。同年、エンタツ・アチャコの漫才「早慶戦」が放送され、横山エンタツと花菱アチャコはスターダムに一気にのし上がる。戦争を挟んで、2人はそれぞれにコメディーや映画に引っ張りだこに。一方、噺家は長老が相次いで亡くなっていった。

 ■想像力
 仁智さんが会長を務める上方落語協会は57(昭和32)年、わずかに残った噺家13人が中心となり、上方落語を普及し守ろうと設立した。今では噺家200人を超えるまで大きくなった。ただ、仁智さんは「大阪の笑いで言えば、新喜劇、漫才、そして落語となってしまう」と、今の落語の置かれている状況を冷静に分析する。
「落語のスタイルは、漫才や新喜劇のように突っ込んだりこけたりして、ここで笑いなさいよ、というサインは送らない。テレビやアニメ、映画などはCGや音響を使って、どんどん大げさになってます。落語はお客さんの想像力に働きかけて、びっくりするような面白さを広げてもらう」
 仁智さんはその好例として古典落語の「愛宕山」(あたごやま)のさわりを披露した。
 小判を谷底にばらまいた旦那に「放ったから拾うた者のものや」といわれた大鼓持ちの一八。谷底へ番傘をパラシュートのように開いて降り立った。さて、どうやってはい上がるか。生えている竹をぐぐっとしならせ、ぴよーんと戻ってきた。 

 旦那が尋ねる。「小判は?」
 大鼓持ち「は、忘れた」

■残る道
 「これからは新作や女性落語家をはじめ新しい落語がどんどん出てくる」と話す仁智さん。上方落語協会は大阪の天満天神繁昌亭を運営し、昨年7月にオープンした神戸新開地・喜楽館(神戸市兵庫区)に所属の噺家を派遣している。いずれも落語の定席だ。「協会は見せる場、活躍できる場面をどんどんつくりたい。 それを大切にすることが上方落語の残る道」。仁智さんは、荒削りだが、同年代に共感される若手噺家の台頭を期待する。「落語は芸を積み重ねて6070歳になって味が出て映えるといわれてますが、世阿弥さんが風姿花伝でいうてます。そのときそのときの輝きがある、と」。若手対象のコンテストを開催し、新しいお客さんが来場しているのに手応えを感じている。最近はテレビでも落語をテーマにした番組が制作され、世の関心が向き始めている。「僕自身は、ラジオで深夜に流すと心地よい空気が流れると思うんですけどね。どこの局か番組枠、空いてませんかあ」と、関西プレスクラブ会員の放送各社へのアピールも忘れなかった。落語を一席披露するつもりだったが、時間切れに。「お時間おませんな。落語はまた繁昌亭に来ていただいて、お付き合いさせていただきます」
 しっかりと落ちをつけて講演は終了。引き続いて、会員交流会が開かれ、仁智さんの周囲は笑顔が絶えなかった。

懇親会には将棋の谷川浩司九段(永世名人)も姿を見せた

 

ゲスト略歴(開催時)

笑福亭 仁智(しょうふくてい・じんち) 氏

 1952年大阪府生まれ。高校卒業後に笑福亭仁鶴に入門。20代後半、桂三枝(現桂文枝)師匠に声をかけられ、新作落語を創作。それをきっかけに古典落語から新作落語路線に。99年大阪文化祭賞の演芸部門奨励賞、2003年文化庁芸術祭の演芸部門優秀賞、15年文化庁芸術祭の大衆芸能部門優秀賞を受賞。186月、第7代上方落語協会会長に就任。