【公平で強力な上司のサポートが必要】

221回 1118

日本航空執行役員 西日本地区支配人
中野 星子 氏
「私の履歴書~私にとっての仕事とは~」

  新聞や雑誌の取材で、「男性社会の中で役員になれた秘訣は?」という質問を頻繁に受けます。 私は同じ答えをしています。
「特別なことはしていません。偉くなりたいというために仕事を頑張ったということはありません」 与えられた仕事を、自分が納得できるまで精いっぱい頑張る。辛い仕事でも楽しみややりがいを見つけて取り組む。それが私のプライドでした。
 家族の理解と協力は不可欠です。私の主人は、私の帰りが遅かったり海外出張で家を空けることが続いても、厭な顔一つしない人です。
 1981年、日本航空に入社したときは、同期の女性は3人。あとの40人以上は男性でした。
 最初の任地は千歳空港。その後、本社の国内マーケティング部と宣伝部で、完全民営化に際しての《鶴丸》のロゴの変更や、メセナとして現在でも続いているイベント《京都音舞台》を立ち上げたりしました。
 その頃、本社の会議に出席する女性は私ひとりでした。「君、誰の秘書?」と訊ねられたり、発言しようとすると「何をこの子は………」という視線を感じたりもしました。
 最初のターニング・ポイントとなったのは、花形の職場、東京支店の国際旅客販売部への異動です。
 〝切った張った〟の営業職場で、女性には無理だと言われていた異動でしたが、ある男性管理職が、「俺が責任を持つから」と社内を説得してくださったそうです。
 公平で強力な上司のサポートの力です。そういう人が必ずいると信じて、全力投球で仕事に取り組むことが必要です。
 営業では、取引先からは「担当者は女性ですか?」、成果を上げると「女性は得だね」、失敗すると「女性だから」という空気の中、ほかの人の二倍以上働きました。飲み会カラオケ、週末ゴルフにも喜んで参加。仕事も楽しくなってきました。
 課長に昇進したときには、女性の先輩たちが駆け寄ってきて、「あなたは私たちの希望の星よ」と喜んでくださいました。
 国際旅客営業部で年の3分の1は海外での会議という生活の後、第二のターニングポイントとなったのは、当時の燃料コスト増に対処するための大プロジェクト《燃油サーチャージの導入》を手掛けた経験です。この成功と実績によって、社内での存在感を得られるようになったのだと思います。
 初の女性営業部長になり、苦しい環境の中、目標超えを達成。家族と思って接してきた部下たちと「来年度も頑張ろう」と喜び合った矢先に知らされたのが、会社の破綻でした。
 15千人が会社を去り、私たちは、去った人たちのためにも必ず会社を再生して次世代に渡すと誓いました。
 京セラの稲盛名誉会長のもと始まった制度改革と意識改革。《リーダー勉強会》や《業績報告会》では、稲盛会長から直々に教えを受けたり、厳しい質問の矢面に立たされました。各本部間のコミュニケーションも進み、入社以来、初めて会社がひとつになったと実感しました。
 その後、アクセス国際ネットワークの社長として出向。さらに今年の4月からは、日本航空執行役員西日本地区支配人として大阪に赴任しています。来年3月の関空―ロサンゼルス便の就航をはじめ、実績を見ながらさらに増便を考えたいと思います。(近藤五郎)

 講師略歴(講演時)=1958年石川県生まれ。1982年青山学院大学法学部卒業。在学中の大学3年、4年に文部省交換留学生として指定大学、UOP(パシフィック大学)法学部に留学。824月、日本航空株式会社に女性総合職一期生として入社、札幌空港支店に配属。84年東京支店国内/国際予約部、86年本社国内マーケティング部、88年本社宣伝部、92年東京支店国際旅客販売部。99年課長に昇格。2002年本社国際旅客営業部(タリフ担当)、05年次長に昇格。074月東京支店法人センター法人販売第1部長、106月アクセス国際ネットワーク代表取締役社長に出向。144月から日本航空執行役員西日本地区支配人(現職)。

 社外では関西経済連合会評議員、関西経済同友会幹事、安全保障委員会副委員長、大阪商工会議所1号議員などを務めている。