事務局発58号

 7月7日、七夕。ふたりの偉大な先輩を悼む日となった。一人は元関西経済同友会事務局長の萩尾千里さん、もう一人は元読売新聞大阪本社常務の市原賢(まさる)さん。4日に85歳で死去した萩尾さんの葬儀がこの日営まれた。また、2020年5月に82歳で亡くなった市原さんをしのぶ会が開かれ、コロナ禍でご遺族にお悔やみを伝えられなかった同僚、後輩、友人らが集まった。ふたりは超一流の新聞記者であったと同時に、萩尾さんは財界人、市原さんは経営者として卓越した腕を持つ無双の二刀流だった。

萩尾さんは、日刊工業新聞の記者だった1968年、「世紀の合併」といわれた富士製鉄と八幡製鉄の合併をスクープした。後の新日本製鉄(現日本製鉄)だ。この実績で朝日新聞にスカウトされ、87年に今度は同友会の事務局長に転身する。当時の同友会は財政基盤が揺らぎ、関経連に吸収されるとの話が出るなど存亡の危機にあったが、萩尾さんの舵取りで乗り切り、若手経営者らが自由闊達に議論して知力を磨き、人脈を広げる「関西財界の登竜門」の姿を取り戻した。

その萩尾さんに、財界担当記者として何度か立ち会った。同友会代表幹事の人事取材は毎年末恒例で、関係先に夜回りなどを繰り返すが、ある夜、萩尾さんに酒席に誘われた。これは好機と、杯を交わしながらそれらしき財界人の名をぶつけるが、先方は「それを書いたらもう誰も相手にしませんよ」「あなたは見所がある。同友会に来ませんか」など、迫力ある酔眼で脅しすかし。こいつはどこまで知っているかと、体よく逆取材されていたのに後で気づいた。勝負になどならなかった。

変幻自在の太刀すじが萩尾さんなら、上段から振りかぶる真っすぐな剣が市原さんだった。目元涼しい二枚目。往年の時代劇スターの大川橋蔵に似ておられた。
市原さんの新聞記者としての真骨頂は、「世紀の祭典」1970年の大阪万博(日本万国博覧会)開幕の1面本記を任されたことだ。流麗な文章を見込まれ、大阪本社政経部(現経済部)の最若手からの抜擢だった。ニュースにも強かった。75年に発覚した10大商社の一角、安宅産業の経営破綻をほぼ一人で担当した。カナダでの石油精製プロジェクトの失敗やオーナー家の乱脈経営が原因で、後に安宅は伊藤忠商事に吸収合併されるが、その処理は日本経済の行方も左右する「日本株式会社の総力戦」と称された。市原さんは特報を連発し企画を執筆した。
支局から政経部に赴任した時、市原さんはデスクだった。以来、「市原道場」の末席ながら、〈先生〉に直に稽古をつけていただいた。いつも笑みを浮かべ、叱ることはしないが、「取材に無駄という言葉はないよ」「財務諸表をよく読んだかい」など、基本動作を徹底して教えられた。

社の経営を担う立場になり、市原さんの腕はさらに冴えた。当時、会社は年間の売り上げに匹敵する有利子負債を抱えていた。歴代の経理局長が手をつけられなかった難事だった。新聞社も民間企業、経営が成り立たねば公正な報道はできない。市原さんは、冗費をなくし、銀行に日参し返済。会社はようやく普通の企業となった。
追いかけようとしてもけっして届くことのなかったおふたりは、天上の星となり、さらに遠い存在となった。これからも七夕の夜空を仰ぐたびに、わが身の狭量を嘆くのかなあ。同い年のおふたりは、天の川を挟んで、とてつもないテーマでスクープ合戦を繰り広げているのかも‥‥。市原さん、萩尾さん、今宵は少し酔いました。献杯です。
(田中 伸明)