事務局発61号

30年前の1月17日発生した阪神・淡路大震災によって、大阪府内で最も大きな被害を受けたのは当時住んでいた豊中市だった。約5千棟の家屋が全半壊、9人が亡くなり、約2千5百人が重軽傷を負った。早朝、マンションを襲ったすさまじい揺れで目が覚めた。妻はすぐに隣室で寝ていた息子二人の無事を確かめ一息ついた。テレビをつけるが、京都や滋賀で建物が壊れたと繰り返すばかり。大阪より東、東海地震を想像し震源地が淡路島とは思いもしなかった。

やがて、被害の中心は神戸だとわかる。鉄道がストップしたため、妻の運転する車で新御堂筋まで出た後、徒歩でダイエーの江坂オフィスセンター(吹田市)に向かった。同社の大阪での拠点で経済記者の足場になっていた。最寄りで情報を得やすい場所として頭に浮かんだのがここだった

オフィスに飛び込むと、広報の井上喜久栄さんがぼう然としておられた。渋滞の中、お父上の運転する車でたどりついたという。時刻は9時を過ぎていたが電話が通じず、現地と連絡が取れないようだ。以降、震災の初日をここで過ごすこととなる。しだいに状況が入り、神戸・三宮「ダイエー村」の店舗群が倒壊するなど深刻な被害が判明、結果的に神戸を代表する企業の対応をいち早くとらえることができた。

ダイエー社長・中内㓛さんの初動は早かった。東京の自宅でテレビニュースから震災の第一報を知り、7時過ぎには地震対策本部が発足、「流通業はライフライン」とし被災店舗への商品供給に全力を挙げる方針を決定。商品配送のためのヘリ、トラック、フェリーの手配を11時までに終え、東京と福岡から応援部隊が神戸に向けて出発、15時にポートアイランドに現地本部を設置した。翌18日午前中には各地から商品が到着し、兵庫県内の48店舗中34店が開店、9店が終夜営業を行った。「店の明かりをつけるだけで、被災者の力になる」との中内さんの指示だった。自身も1月20日に現地に入り直接、指揮をとった。

しかし、あまりに早い被災地入りに社内には反対する声もあったという。「あの惨状を見ると判断を誤るのではないか」との危惧だ。事実、長男で副社長の潤氏を中堅幹部が支える新体制が整うなか、流通業界で初の経団連副会長のポストも辞め社業に専念する。激しい揺れと火災で瓦礫と化した街を目の当たりにし、戦火で荒れ果てた50年前の神戸がフラッシュバックしたのではないか。

バブル崩壊によってダイエーは震災以前から業績が悪化していたが、積極路線は変わらなかった。流通担当して中内さんに何度かお会いしたが、震災後初めて面会した日、部屋の窓から神戸の街を見渡された表情が最も生気に満ちていたように思う。しかし、震災による損失が重なり97年に赤字転落、2001年に中内さんは責任をとり経営から退く。経営危機は続き04年には産業再生機構の支援を受け、15年にイオンが完全子会社化。ダイエーの行く末を見ることなく、中内さんは05年に83歳で死去した。

激動の1日を共に過ごした広報の井上さんは、いくつかの会社を経て今はエア・ウォーター取締役、関西プレスクラブ会員でもある。井上さんに「震災がなければ、ダイエーは存続していたのでは」と聞いてみた。答えは「同じ結果だと思います」とクールだ。しかし、震災がなければダイエーは生き残り、中内さんは財界のリーダーとして経済・社会全体のため、大嫌いな各種規制の緩和に剛腕を振るったのではないか。中内ファンの妄想だろうか。

阪神・淡路、東日本、熊本、能登――相次ぐ震災で、運命を理不尽に変えられた人や企業は幾万もある。1月13日、再び日向灘で地震が発生、南海トラフの足音を感じずにはいられない。人の力に限界はあるが、運命の暗転を和らげることはできる。過去を忘れず「その時」に生かすことだ。

プレスクラブ事務局のドアを開けてすぐの壁には、震災により阪神高速道路が数百メートルに渡って倒壊した写真をA1サイズで掲げている。30年前について、事務局を訪れるみなさんに語り、自ら思いを絶やさないために。(田中 伸明)