記者自身が思い続けないと震災は忘れられる(関西プレスクラブ30周年記念講演会「伝説の記者⑦」)

2024年12月17日(火)
関西プレスクラブ30周年記念講演会「伝説の記者⑦」磯部 康子氏

「復興を問い続ける—阪神・淡路大震災30年」

私は神戸新聞の記者6年目で震災を経験した。その後いろんな避難所とか仮設住宅とか取材をしてきたが、一つ定点を見つけてその状況を見続けるというのは大切だ。本当の被災者の姿が見えるのは夜だ。夜になると避難所に戻ってきて寝るわけだが、いろんな問題が起きる。その姿を見るのが取材の上ではとても大事だ。
取材を通して感じたのは、遺族もそれぞれで、悲しみにくれている遺族もいれば、それだけではない女性もいた。遺族を一括りにしてはいけない、ということを教えてもらった。
東日本大震災では東京都内にいたので、震度5強ぐらいで慌てふためいてる人々を見て、ああ関東の人も全然、地震に慣れていないんだなと思った。同時に阪神・淡路の震災はすごくローカルなのだと改めて痛感した。結局、教訓は全国には伝わってないし、能登半島の被災地のことも、しつこく何年たっても言っていかないと何も変わらない。

阪神・淡路大震災とは何だったのかを考えた時に、大災害時代の始まりと私は捉えている。高度成長期は地震の静穏期と重なって「関西に地震は来ない」という思い込みが広がってしまった。1番の大きな問いは、先進国でこんなに技術が発達しているのに、なんで6千人以上も死んでこんなに復興感がないのかということだ。
大災害の時に持つべき視点として、まず、自分の身の安全を確保できなければ取材もできない。被害報道だけじゃなく水がどこでもらえるとか、どういう生活再建の仕組みがあるとかいう情報を繰り返し出すようになったのは震災以降の動きでプラス面として捉えたい。
長期的な復興の報道が、次の災害の防災、減災につながるというのはこの30年すごく感じている。今起きていることだけでなく、提言をしたり、制度を検証したりして、次の被災地でその宿題が解決されれば、被災地として伝えた意味があるのではないかという姿勢はある。マスコミの役割として、被災者や遺族が語る場の扉を常に開いておくことは大きな役割だ。被災者とか遺族が語ろうという時期は、10年、20年ではまだ短いという人がたくさんいる。
阪神・淡路大震災が起きて、その年に地震防災対策特別措置法ができて、日本中に観測網が張り巡らされた。阪神・淡路の犠牲の上に、こういう仕組みが作られてきたということは伝えていきたい。公的施設の耐震化は阪神・淡路の後かなり進んだし、被災者支援の制度も大きく変わった。阪神・淡路大震災は義援金では生活は成り立たない、住宅も建てられないことが大きな問題だった。それが被災者の運動で3年後に被災者生活再建支援法ができた。被災して大きな被害を受けたら公的に現金がもらえる制度。今は住宅再建もこのお金を使えるようになった。
もう1つ重要なのが死者の捉え方が変わったことで、今は関連死という言葉を当たり前のように聞くが、阪神・淡路大震災は初めて関連死を公的に認めた災害だった。関連死に認められるのがなぜ大事かと言うと、弔慰金が支給されるから。自殺した人も関連死として今は認められているけれども、当時は認めてもらえなかった。この30年の間に、ずいぶん社会が変わってきた。
関連死の問題では、東日本大震災の福島の被災地に行った時に、原発事故で自衛隊も入ってくれず、次々と高齢者が死んでいく。阪神・淡路から16年の間に、自分たちは何をしてきたのかなと絶望した感じがあった。高齢社会が進んでいけば、災害のたびに関連死は起こってしまう。それをどれだけ食い止められるかが問われている。
心のケアという言葉が一般的に広く認識されるようになって、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉も、当たり前のように使われるようになった。ただ、大事なのはまずは暮らしを立て直してその上での心のケアということで、家がないとか、仕事がないとかいう生活の苦しい状況が続いている中で、心のケアが行われても根本的な解決にはならない。
ボランティアに行くのが、社会全体として当たり前になったのはこの30年の大きな変化だ。若い人が被災地を見るのは、すごく大事でそこには自分が経験したことのない現場が常にある。NPOという言葉も非常に一般的になった。災害が発生したらボランティアセンターを開設することも、当たり前になった。ただ、制度ができて受け入れの窓口ができても、被災者が望む支援につながっているかは、今のボランティアのあり方を考える時に非常に重要な点ではないかと思う。
災害の復興には長く時間がかかる。5年や10年では終わらず、非常にしんどいことを認識しないといけない。あとはやはり、公的な支援がないと生活再建は難しい。公助という土台があるから、安心して自助とか共助ができるわけで、先に自助共助をやれというのは違うと思う。
JR新長田駅の南地区の再開発がつい先日終わった。マンションもできて人口は増えているが、商業ビルの地権者で戻った人は半分もおらず、多くの住民も戻れなかった。これは誰のために復興したのかという点で、非常に大きな教訓になるのではないか。街を綺麗にして元々いた被災者が出ていかざるを得なくなっても、復興に使える制度が限られている。同じような状況が、これからも繰り返されるのではないかという問題意識がある。
次の災害に向けて、南海トラフ地震は火災も建物倒壊も津波もいろんな問題が一緒に起こる。しかし、外部からの援助はほとんどない。それぞれの地域で何とかしなければならない。阪神・淡路は都市災害の教訓はある程度伝えているが、これからの巨大災害のモデルにはならないかもしれないことを考える必要がある。
最近の被災地で感じるのは、阪神・淡路の時よりもどんどん忘れられる時間が早くなっていることだ。記者自身が思い続けていないといけないし、マスコミの社内で継承していくのはすごく重要だ。遺族はなんで自分の家族が死んだのか、なんで助けられなかったのかという後悔を、みんな死ぬまで持ち続けている。一人ひとりの人間が復興していくには何が必要なのかを、考えて発信していくことが大事だ。次の災害と前の災害の間を私たちは生きていて、次の災害が来たら、またそこから新たな復興のプロセスが始まるのだと思う。 (増田 健二)

Q、 これからの災害報道のあり方は。
A、磯辺氏 新聞やテレビで伝える限界は、多分すでに来ていると思う。マスコミが伝えるというよりは記者も外に出ていって、みんなで考えましょうという場を、どれだけ枠を超えてつくっていけるのかが課題だ。

元神戸新聞社専門編集委員(災害担当)
磯辺 康子(いそべ やすこ)氏
ゲスト略歴(講演時)=1965年、兵庫県尼崎市生まれ。1989年、関西学院大学大学院文学研究科修了。1989年、神戸新聞社入社。社会部(報道部)、生活部、東京支社、論説委員室などを経て、2015年、専門編集委員(災害担当)を最後に退社。
記者6年目の1995年、阪神・淡路大震災で被災し、以後、国内外の被災地取材、阪神・淡路大震災の復興報道にかかわった。在職中、災害時の心のケアをテーマに米国・UCLAで研究。ひょうご震災記念21世紀研究機構の特別研究員なども務めた。2023年5月から現職。日本災害復興学会広報委員。
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