事務局発57号

 聖徳太子の生誕1450年を記念したシンポジウムが昨年11月、太子の生地と伝えられる奈良県明日香村の橘寺で開かれた。
 太子の偉業とされる十七条憲法が論議となる中で、有名な第一条の「和をもって貴しとなし、さからうこと無きをむねとせよ」をパネリストの1人、平等院住職の神居文彰(かみい・もんしょう)氏は、けっして「同調圧力」を肯定するものととらえてはならないと指摘した。氏は「最後の第十七条が実は重要だ」とする。
 十七条は「事独り断(さだ)むべからず、必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)うべし」。太子は無条件な「和」ではなく、様々に意見を交わした上での「和」を求めた。
 しかし、千数百年後のこの国は、その願いにもかかわらず、無条件の「和」、同調圧力にいかに満ちていることか。ネット空間は具現の場となっている。
 12月に閉幕したサッカーワールドカップ・カタール大会。指揮官が「一喜一憂せず」と選手たちを引き締めるのをよそに、ネット空間は日本代表の戦いぶりにジェットコースターのように動いた。初戦・ドイツ戦の勝利に始まる快挙と凡戦の繰り返しに「手のひら返し」「手のひら返しの返し」…。監督、選手への一方的な称賛と名指しの批判が交互した。
 他愛のない例はともかく、ネット上の書き込みによって名誉を傷つけられる例は後を絶たず、自死に追い込まれる事件が起きている。
 異国もより過剰だ。米紙によると、トランプ前大統領は、執務時間の約6割を「エグゼクティブ・タイム」と称する自由時間にあて、ツイッターへの書き込みなどに費やしていたという。最高権力者のネット上の発言が世論の分断をまねいた。
 ここで、「輿論」と「世論」である。みなさんには今さらだが、あえて説明する。「世論」は明治時代に使われ始めた比較的新しい言葉で、「せろん」と読ませ、「輿論」の「よろん」とは厳密に区別されていた。
 京都大学大学院の佐藤卓己教授が、その違いを著書「輿論と世論」(新潮選書)で明快に解説してくれている。
 「輿論」は正確な知識や情報をもとに議論や吟味を重ねて練り上げられた意見、対して「世論」は、好き・嫌いのような感情や気分から出る空気。英語に訳すと「public opinion」と「popular sentiments」。対極をなす言葉だった。
 同教授によると1946年に「輿」が当用漢字でなくなり、境界がさらに曖昧となる。「輿論指導」を使命に掲げた報道機関にとって不幸なことだった。
 先の大戦で新聞、放送はその役割を忘れ、「世論」を一つにまとめる効率的なツールとして権力に利用されたことは、歴史的事実として反省してもし尽くせない。今現在も権力に「忖度」する記事、ニュースが読者、視聴者離れを加速させているとの指摘も受け止めねばならない。
 しかし、ネット空間で感情的に暴走する「世論」を「輿論」によって方向づけるのは、オールドメディアと呼ばれるようになったわれわれしかないのではないか。
 「衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)う」ためには、左右、中道あらゆる立場で、哲学から政治、経済、文化芸術、科学、風俗まで、森羅万象を伝える、新聞や放送こそが、今、出番ではないか。1年の幕開けの初夢かもしれないが、そう思うのである。
 ワールドカップに戻ると「三笘の1ミリ」を判定したサッカー競技規則も17条からなる。全くの蛇足だが。(田中 伸明)