関西プレスクラブ設立30周年記念講演会「伝説の記者」③ 井手裕彦 氏


※講演の模様をYoutubeにアップしました※

2024年4月17日(水)
関西プレスクラブ30周年記念講演会「伝説の記者③」井手 裕彦 氏

「絶滅危惧種の抑留記者を生きる 歴史的大著『命の嘆願書』を刊行して」

報道の世界では、事件記者、政治記者、経済記者などいろいろあるが、自分は「抑留記者」だと自負している。昔から数えるほどしかいなかった「絶滅危惧種」だ。
著書「命の嘆願書」は10年の取材成果を元に、3年を費やして書いた。厚さ7センチ、1812グラム、135万字で1296ページの上下二段組みだ。個人の書いた抑留関係の書籍では最長になる。
抑留問題の取材は2013年から本格的に始めた。私は社会部一筋で、「強気をくじく」ことで、「弱きを助ける」ことにつながると信じてきた。転機は12年夏、57歳のとき。それまで編集局次長として、朝夕刊の紙面制作を指揮していた。それが編集委員に異動を言われ、再び取材現場に戻るならば戦争犠牲者の問題に取り組もうと考えた。
そうしたなかで15年1月、当時のモスクワ支局長の緒方賢一さん(現論説委員)がロシア連邦国立公文書館から資料を入手した。第2次世界大戦後、ソ連が北朝鮮に設けた送還収容所で死んだ日本人抑留者868人の名簿だ。この中の誰か遺族を探して、話が聞けないかと依頼された。「記録に命を吹き込む仕事だ」と思った。
だが、日本語に訳された名前はとても日本人とは思えないものばかりだった。目をつけたのは「ウォカスゲ・ハツエ」という女性。職業を「看護婦」と記されていた。従軍看護婦は当時、日本赤十字社から派遣されるなどしていた。日赤が非公開としていた戦時救護班の名簿を「遺族を見つけるまで記事にはしない」ことを条件に開示申請をして、認められた。
たどり着いたのが新潟県見附町(現見附市) の「若杉初枝」さん。遺族を探すため、インターネット電話帳の片端から電話した。実家は空き家だったが、斜め裏に住んでいた人の情報から、甥が市内中心部にいるのが判明した。会いに行くと、一族を集めてくれていた。日赤の看護婦というのは村の名誉だった。初枝さんの死因は肺結核で、そのとき初めて、遺族の方々も死因を知って、泣き崩れる人もいた。この経緯は15年4月2日の読売新聞で報道した。
その後、モスクワの緒方さんの資料を元に、サイドストーリーを取材する仕事が2年続いた。自分でも現地で資料を入手できないかと思ったが、ロシア語、モンゴル語はできない。考え出した秘策が、日本人抑留者が書いた日本語の文章を探すことだった。
休暇でモスクワのロシア連邦国立公文書館に行き、モスクワ支局の助手の手助けで、日本人抑留者が書いた感想文のファイルを見たのがヒントになった。公文書の公開期限がきたとき、日本語の記録は内容がわからないため、真っ先に公開の対象外にされるが、徐々に公開が進んでいたのが幸運だった。20年1月にモンゴルの公文書館でも日本語の記録を入手し、著書につながった。著書で取り上げた資料は全部で233点。そのうち40点は全文を掲載した。新発見の資料が幾つもある。 
著書の冒頭で「もしもあなたが暴虐のまかりとおる専制国家の捕虜になり、明日の命をもしれない極限状況に追い詰められたら……」という問いを投げかけた。①自分の命を守るため、おとなしく相手国に従うか。②この際、相手国の懐に飛び込むか。③理不尽な命令には応じず、生き延びるために抵抗するか。
モンゴルで3つ目の選択をした日本人が3人いた。同胞の命を守るため、モンゴル政府に嘆願書を出し、ぎりぎりの折衝をした。当時41歳の久保昇さんは、民間人の抑留は国際法違反だとして、居留民団員1千人の早期帰還を申し立てた。当時31歳の小林多美男さんが訴えていたのは凍傷対策。70人がモンゴルに連れてこられてすぐ凍傷になった。限界点を越えると切断するしかないが、麻酔薬も消毒薬もない。この段階で小林さんは帰国後の患者の身の上を案じ、「手足を切断し、障害者になれば日本に帰国しても悲惨な生活苦が待ち受けている」と書いていて、心を打たれた。
嘆願書が出された後、若干の処遇改善があったが、早期帰国はなされなかった。久保さん、小林さんは収容所に設けられた監獄に投獄されたうえ、重労働に駆り出された。モンゴル当局は、病院に入った抑留者は早く治療を終わらせ、労働現場に戻したい。だが、日本人医師のトップで、小林さんとともに凍傷対策の嘆願書を出していた当時33歳の本木孝夫さんは約200床しかないところに、「回復しない者は残す」という方針で、1000人以上を滞留させた。当局は本木さんに更迭命令を出したが、他の医師や衛生兵らが「本木さんを更迭するなら、自分も殉じてついていく」と抗議し、命令が撤回される異例の事態も起きた。
嘆願書はスムーズに入手できたわけではない。駐日モンゴル大使館やモンゴル公文書管理庁に了解をもらっていたのに、出発直前になって、モンゴル外務省から「外国人には見せられない」と言い渡された。新型コロナウイルスの感染でモンゴルは私の帰国直後、国境封鎖に踏み切っており、ここで諦めたら嘆願書は永遠に入手できなかった。
遺族から委任状をもらっており、「遺族にとってはかけがえのない肉親の遺品だ」と訴えた外務大臣宛てのレターを作成。在モンゴル日本国大使に橋渡しを依頼し、ようやく閲覧の許可が出た。
許可を待つ間、入館制限のないモンゴル国立中央公文書館に通った。そこで、日本人軍医らが看取った抑留者の死亡診断書、死亡調書、死亡証明書といった日本語の記録に遭遇した。1100ページを超える5つのファイルだ。だが、これらの書類を入手するか迷った。このときの取材の主目的は嘆願書の入手だったし、究極のプライバシー情報である死亡記録はそのまま紙面には出せない。手数料は全部で20万円以上かかる。それでも、自費で入手した。記録を読んでいるといたたまれなくなり、このまま立ち去れば苦難に耐えた死者の人生を見捨ててしまう気がしたからだ。
脱走で投獄された27歳の陸軍上等兵は労働現場で2日連続卒倒し、薬もなく死亡。20代なのに「衰弱死」だった。42歳の兵卒は栄養不足でベッドから床の上に落ちてそのまま亡くなった。
新聞社を辞めた後、1100ページの死亡記録を2か月がかりで分析した。モンゴル政府から日本政府に提供されていない46人分の死亡記録が含まれており、北海道から上京して厚生労働省に情報提供。厚労省がこれまでに22人の身元を特定した。残りの人たちの身元の特定も進める。著書では283人の死亡者全員の氏名のほか、私の携帯電話やメールアドレスも公表し、遺族を捜して記録を無償提供することにした。自分の命がある限り、自費で続けて行く覚悟だ。
抑留された57万5千人には57万5千通りの人間ドラマがあり、5万5千人の死者には5万5千通りの死に至る経緯がある。そのドラマに向き合い、事実に迫るのが抑留記者の矜持だと思う。来年の戦後80年は、その時代に生きた人から直接、戦争体験の継承ができる最後の機会になるだろう。だが、抑留記者にしかできない役割は「継承」ではなく、「新事実を切り開くこと」だ。70歳を迎える来夏までにモンゴルに再訪して、まだ届いていない真実にたどりつきたい。(野島 淳)

元読売新聞大阪本社論説委員・編集委員 
井手 裕彦(いで ひろひこ)氏
ゲスト略歴(講演時)=ゲスト略歴(講演時)=1955年、福岡県生まれ。京都大学文学部卒業後、1978年、読売新聞大阪本社入社。社会部で主に隠された不正を追及する調査報道を担当。論説委員、編集局次長、編集委員を経て2020年6月、退社。在職中は内部告発者保護のための消費者庁「公益通報者保護法の実効性の向上に関する検討会」委員など政府、中央団体の審議会委員などを歴任。記者職の傍ら、ジャーナリズム論を大学で教え、2014年から2020年まで羽衣国際大学客員教授。
1985年の戦後40年の取材班の経験をはじめ数多くの戦争関連の取材を行い、編集委員に就いてからはシベリア抑留の実態解明に傾注した。ロシア、モンゴルでの公文書館での調査に出向き、新たな資料を発掘。自ら捜し出した抑留者の死亡記録について日本政府に情報提供するとともに遺族に記録を無償提供する取り組みを行っている。新聞社退社後の2020年6月より北海道に在住。
2023年8月、刊行した『命の嘆願書 モンゴル・シベリア抑留日本人の知られざる物語を追って』(集広舎)は通常の新書の10冊以上の135万字の大著で、2023年度の第9回シベリア抑留・記録文化賞(シベリア抑留者支援・記録センター主催)を受賞。共著に「語り継ぐシベリア抑留」(2016年、群像社)など。