【けじめをつけて新しい日本の姿を打ち出すことがこの内閣に課せられた歴史的役割だと思った】

228回 624

元内閣総理大臣
村山 富市 氏
戦後70年シリーズ
「村山元総理『めぐり合わせの人生』を語る」

 きょうのテーマになっている『めぐり合わせ』ですが、辞書を引くと「自然に回ってくる運命」という意味でまさにそういう印象を私自身も感じています。実は社会党委員長に推薦され来阪した時に、新大阪駅でテレビで顔は見たことはあるが名前を知らない人から「村山さん、たいへんですね。誰にも人生にはめぐり合わせはある。その時に逃げたらいけない、乗り越えなければならない」と声を掛けられた。あとで駅の人に聞くとフランキー堺さんであることを知り、なかなかいいことを言う人だなと思った。そういうことがありこの言葉を使うようになった。
 私は大分市の小さな漁村で生まれ、きょうだいは11人。家が貧しかったので高等小学校を卒業後、友だちといっしょに上京し品川の町工場に勤めた。その後、築地の印刷所に移り、住み込みで働きながら定時制学校に行かせてもらった。その学校の先輩の薦めもあって明治大学専門部に入った。在学中に学徒動員があり入隊したが、815日にポツダム宣言が受諾され終戦を迎えた。これからどうしようか迷ったが大学に復学し、卒業後大分に帰った。
 郷里では漁村青年同盟の運動をしながら、戦争について自分なりにあの戦争は一体何だったのかを考えてみた。天皇の統帥権を当時の軍部が乱用して無理やり戦争に引き込み国民に多くの被害を与えた。だからこれからの日本の政治は、民主主義でないといけない、戦争は絶対反対、平和を守らなければならないと思った。そして漁村運動をする過程で社会党入党を決めた。その後、大分市会議員、県会議員を経て衆議院議員に当選した。その時、これからの私の役割は労働者の解放と高齢化社会に向けた年金、医療、介護を充実させることであり、これを私の国会議員の終生の仕事とすると決めた。社会労働委員会を始め、予算、国対、党委員長を経て総理になったわけだが、自分の意思ではなく自然に回ってくる運命に背中を押された不思議な人生だった。
 総理に就任すると終戦後50年の節目だった。そこで内政問題で未解決の問題をできるだけ解決する、外交問題についても何らかのけじめをつけて新しい日本の姿を打ち出すことがこの内閣に課せられた歴史的役割だと思った。東南アジア、韓国、中国を訪問してアジアから信頼される国になることが日本の将来のためになると考え、就任翌年に閣議決定して「戦後50年談話」を出した。発表後は日中、日韓関係で過去の歴史問題が問題になったことはあまりなかった。
 ところが第2次安倍内閣になって、安倍さんがいろいろな発言をして問題を蒸し返している。その挙句、すべてを継承するわけではないが、全体として継承していると言っている。村山談話や小泉談話を認めたくないのだろう。50年談話でも60年談話でも言っていることを3度も言う必要はないと考えているのではないか。「戦後70年談話」は世界的にも注目されているし個人の談話として出すなら、ますます疑念が深まる。正式に閣議で決めて政府の見解として公式に出さなければ談話を出す意味がない。(谷本 和之)

講師略歴(講演時)=1924(大正13)大分市の貧しい漁師の家に、八男三女のうちの六男として生まれる。1944年明治大学専門部在学中に学徒動員。終戦後、復学し明治大学卒業。郷里に帰り、漁村運動を経て、大分市議(2期)県議(3期)を経験。1972年衆議院議員初当選(8期)。1994年第81代内閣総理大臣に就任。本人は「めぐり合わせの人生」とよく言う。翌年8月の「村山談話」は、歴代内閣が踏襲している。
 現在も社会民主党名誉党首のほか、日中友好協会名誉顧問、日本ベトナム友好連絡会議会長を務める。91歳。