関西プレスクラブ30周年記念講演会「伝説の記者④」石高健次氏


※講演の模様をYoutubeにアップしました※

2024年6月17日(月)
関西プレスクラブ30周年記念講演会「伝説の記者④」石高 健次氏

「体を張って、拉致暴いた記者~今だから話せること」

当時(1990年頃)と言えば、私の頭に拉致の「ら」の字もなかった時代だ。北朝鮮における核開発疑惑が初めて持ち上がった91年、北朝鮮から韓国への亡命者(当時は脱北という言葉はなかった)のインタビューの約束をとりつけてソウルへ取材に出かけた。そして取材後に明洞の飲み屋で韓国の国家安全企画部(韓国版CIA )の人から「石高さんは大阪出身ですよね。大阪で生まれ育って北朝鮮に渡って、その後亡命した人を保護しています。35,6歳です。この人に会ってみませんか?」と言われた。さらに「約10万人が北朝鮮に渡っている帰国事業を知りませんか?」と告げられた。その時は「なんか聞いたことあるなあ」と吉永小百合さん主演の映画「キューポラのある街」のワンシーン程度しか思いつかなかった。いま思えば、その時が私の人生の分かれ道だった。北朝鮮と敵対している韓国の国家安全企画部の話は本当か嘘かわからないし、私を謀略の片棒担ぎをさせようとしているのではないか、と疑心暗鬼だった。しかし翌日、その大阪出身の亡命者に会い、彼が語った「地上の楽園といって北朝鮮に10万人が帰って行ったが、数千人が行方不明になっています」という言葉に衝撃を受けた。そんな取材を続けて92年にTVドキュメンタリー番組「楽園から消えた人々・北朝鮮の悲劇」「サンデープロジェクト」「テレメンタリー」(テレビ朝日系)で放送した。ものすごい反響だった。
一連の取材の中でたくさんの在日コリアンと知り合い、朴さんという女性もその一人だ。朴さんには何度か取材をしていたが、 94年に京都・桂駅の喫茶店で聞いた話が衝撃的だった。彼女の兄は北朝鮮への帰国者でその後、銃殺刑になったが、その原因が彼女が東京で一緒に暮らしていた北朝鮮からの工作員とのやりとりだとわかった。その工作員こそが「辛光洙(シンガンス)」だ。辛光洙は拉致帰国者の地村さん夫妻の拉致や横田めぐみさんの教育係として知られ、かなり上のクラスの拉致工作員だ。彼女の口から、辛光洙が大阪の中華料理店コックの原敕晁(はらただあき)さんを拉致して、本人に成りすましていると聞いた。「拉致」という言葉を初めて耳にした私は手が震えて持っていたアイスコーヒーを思わず落としそうになった。彼女はまた、辛光洙から見せてもらった免許証が名前は原敕晁と書いてあって、写真だけが辛光洙となっていたと話してくれた。朴さんの口から出たこの一言から私は拉致の取材を始め、そして95年2月、辛光洙と共謀して原敕晁さんを拉致した男に直撃インタビューをした。
【TVドキュメンタリー番組「闇の波濤から」一部上映~石高記者が韓国・済州島で拉致実行の男の自宅を突き止め、張り込んだ末に直撃インタビュー。男は最初は「知らない」と言って逃げようとしたが、最後に原さんを拉致したことを認めた】

95年にこの直撃インタビューを含む、日本人13人が拉致されたというTVドキュメンタリー番組「闇の波濤から」を制作した。この番組がメディアとして初めて日本人拉致の存在を明らかにした。日本で初めて「拉致がある」と実証した番組だったが、まったく反響がなかった。信じられないというのが一般の視聴者の反応だったようだ。
こうした取材や番組制作を続ける中で、1つの断片情報を耳にした。それは「13歳の中学1年生の女の子がバドミントンをした学校帰りに工作員に遭遇して拉致されたようだ」という内容。そこでこの断片情報について「何か知っている人はいないか?」という思いから月刊誌「現代コリア」96年10月号に記事を書いた。これがきっかけでその後、横田めぐみさんにたどり着くことになった。この断片情報を調べていくと1977年に新潟日報で「下校途中に中学生が行方不明」という記事があった。とにかく親に知らせないといけないと思い、電話番号案内(104)でお父さんの横田滋さんを調べたが、連絡先がどうしても見つからない。そこで当時、この行方不明を調査していた共産党の参議院議員の秘書にこの断片情報を伝えると、横田滋さんの連絡先を探し出して教えてくれた。
そして97年1月23日、私は横田めぐみさんの両親の自宅を訪ね、めぐみさんが拉致されて平壌で生存している可能性があることを伝えた。当時、めぐみさんの行方を知っているのは日本で私だけで、20年間、何も手がかりもなく過ごしてきた両親に娘の情報を伝えた瞬間だった。
【TVドキュメンタリー番組「空白の家族たち~北朝鮮による日本人拉致疑惑」一部上映~石高記者が川崎市の横田めぐみさん両親の自宅を訪ね、めぐみさんが拉致されて北朝鮮で生きている可能性があることを直接伝える。その瞬間の映像が映し出される。横田早紀江さんの表情が少しほころび、涙ぐみながら「希望を持てる話を聞いたのはこの20年間で初めて。夢のようです」と答える】
その後、報道ステーションで放送し、ようやくメディアが関心を持ち始めた。97年3月に拉致被害者の家族会ができたが、当時、全国の拉致被害者の家族の住所を知っていたのは私だけで、みなさんに声をかけてその立ち上げに携わった。その後はご存じのように2002年9月に小泉総理が訪朝し、10月に5人が帰国、8人死亡と伝えられた。

Q、拉致問題はなぜ解決しないのか?
A、国家安全保障は国民の命と領土を守ることだが、日本はその意識が無さすぎる。政治家は外国の要人に拉致解決の協力をお願いするだけだ。日本には情報機関がなく、政府は横田めぐみさんの拉致も知らず、北朝鮮にいるとわかりながらも救出もできない。これが日本の現状だ。

( 香山隆司)

 

元朝日放送報道局プロデューサー兼ディレクター
石高 健次(いしだか けんじ)氏
ゲスト略歴(講演時)=数多くの報道ドキュメンタリー番組を手がける。1981年、在日コリアンへの差別を告発した「ある手紙の問いかけ」でJCJ奨励賞。86年、地下鉄に徘徊するスリの実態と摘発までを追った「集団スリ逮捕」でギャラクシー大賞。97年、横田めぐみさん拉致を突き止め、その経緯と家族の苦悩を描いた「空白の家族たち」で新聞協会賞。また、2006年には、アスベストによる健康被害を掘り起こし、被害の実態と救済を社会に訴えた報道で、第1回科学ジャーナリスト賞を受賞した。現在はフリーランスのジャーナリストとして活躍中。