第225回 3月18日
高野山霊宝館副館長
山陰 加春夫 氏
「高野山開創1200年~聖地の歴史から学ぶこと」
和歌山県伊都郡高野町にある高野山は、単独の山ではなく、標高1,000㍍前後の山々と、それに囲まれた東西に4㌔、南北に2.3㌔の盆地状の平坦地の総称のことです。高野山は、弘仁7年、816年に空海が金剛峯寺を建てたことで始まります。日本の神々の威光が宿すように、日本の国が太平であるように、さらに生きとし生けるものが幸せに暮らせるように、ということを実現するために建てたのが金剛峯寺です。
高野山は、空海の時代やその後しばらくは空海というビッグネームでもっていたが、10世紀になると、田舎の山の上の寺で、遠隔地へも出にくいという困難が目立ってきた。さらに、落雷で壇場伽藍が全焼し、高野山は急速に衰微しました。しかし、空海が921年に弘法大師という諡号をいただき、永遠の生命と絶対的なパワーを持つ霊的な存在となりました。その後、白河上皇、鳥羽上皇らが山に来て弘法大師にお参りするようになり、高野山は息を吹き返し、1200年続いてきました。
高野山にお参りすると、五つの功徳があります。一度でも参詣すれば心身ともに健康になれる。一夜でも宿泊すれば仏になれる。弘法大師のいる御廟にお参りすると、この世を安らかに暮らせます。死んだら、極楽、阿弥陀如来の浄土に行けます。お参りして高野山とご縁を結べば、56億7000万年後に奥之院で開催されるビッグイベントのチケットを手に入れることができます。
仏教では56億7000万年後に新しい仏である弥勒菩薩が表れ、3回だけ講演会を開くといわれています。うち1回は高野山で開かれます。弘法大師と弥勒菩薩は無二の親友だからです。ただ、弥勒菩薩は日本語を話せないので、弘法大師が御廟から出て弥勒菩薩の横で日本語に通訳します。高野山のイベントは非常に豪華なものになるでしょう。
江戸時代に、高野山は、山麓に2万1300石の朱印地(幕府公認の寺領)を持つ宗教領主で、参勤交代を行う寺でした。また、学問の道場の顔を持ちます。1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島で書いた手紙には、高野山が日本の6大学の一つであることが記されています。信仰の霊場でもあります。ザビエルよりも後に来日したルイス・フロイスが書いた「日本史」の中に、高野山においては、弘法大師が「数千年を経て、弥勒菩薩と称する他の仏とともに来たって、世界を再建する」ことを約束したメシアである、と固く信じられているなどと書かれております。また、聖俗空間の顔もあります。聖なる地ですが、僧侶が一般の人と住む俗な空間でもあり、そこが比叡山とは違うところです。
怨親平等という言葉が仏教にはあります。仏教の大慈悲の精神に立って、敵も憎むべきではなく、味方にも執着してはならず、平等にこれを愛憐しなければならない、という考え方で、高野山はずっと実践してきました。高野山は真言密教の山と言われているが、奥之院は弘法大師のファンの集いのような場所です。そこには法然上人や親鸞上人の御廟がある。高野山を攻めようとした織田信長の墓もある。まさに怨親平等の場所です。
比叡山のように焼き討ちにも合わず、ほぼ無傷で今日まで来ました。南北朝時代に、高野山は中立を保った。政治的な中立と自衛を宣言しました。56億7000年先のイベントまで生き残って、ずっと政治的中立を保ってもらいたいと思っています。(照山 哲史)
講師略歴(講演時)=1951年、和歌山県高野山生まれ。73年、大阪市立大学文学部史学地理学科卒業。大阪市立大学大学院、高野山大学大学院、高野山大学教員を経て、高野山霊宝館副館長。高野山大学名誉教授。大阪市立大学で博士号(文学)取得。専門は日本中世史。
『きのくに荘園の世界』上・下(共著・清文堂出版、2000年・02年)▼『中世寺院と「悪党」』(清文堂出版、06年)▼『巡礼高野山』(共著・新潮社、06年)▼『新編中世高野山史の研究』(清文堂出版、11年)▼『歴史の旅 中世の高野山を歩く』(吉川弘文館、14年)など、著書多数。趣味はギター。