『やれ』から『やろう』 『がんばれ』も『がんばろう』になって 強くなった

第255回 2018年2月16

関西ラグビーフットボール協会会長
坂田 好弘 氏
「ラグビー今昔」

 今から60年前、15歳でラグビーを始めた。大学は同志社。1年と3年の時に日本一になり、大学の先輩に誘われて近鉄に入社した。
 高校、大学、社会人と強いところでずっとやり、それから大阪体育大学で指導者になるのだが、選手と指導者はまったく違う。すぐに日本一のチームをつくれるかというと、そんなことはない。近鉄や同志社の練習を組み合わせて厳しいことをやるわけだが、成果が表れない。負けたら「練習が足らん」とまたきついことする。「練習したら勝てる」。それしか言わない時代だった。
 5年目くらいの時、うちの選手が試合中に衝突して頭から血を流して倒れた。僕は「放り出して代わり入れ」と言った。すると横で試合を見ていた親しい新聞記者が「何言うとるんや」と怒った。その時はなぜ怒られたのか全然わからなかった。
 同じ頃、比叡山で千日回峰行をされた阿闍梨さんが非常に懇意にしてくれていた。食事を一緒にさせてもらった時に「私このごろ掃除の仕方を忘れました。時々掃除をしないとだめですね」と言われた。それも何の話か分からない。僕は考えて、ああそうやと思った。地位が上がると現場のことを忘れてしまう。初心に返れと言われていると。「放り出せ」と言ったのも、選手のことを考えていなかったと。それから練習方法を変えた。練習計画を選手に立てさせた。言葉遣いも変わった。「やれ」から「やろう」、「がんばれ」も「がんばろう」になって、体育大は強くなった。
 当時、同志社大は関西のリーグ戦で長年負けなし、大学選手権も3年連続で勝っているチームだった。そこと体育大がリーグ戦で当たった。どちらも全勝だった。たぶん勝てないと思ったので、同志社戦は力を使わず、その次の試合で勝って2番になろうと選手に話したら「絶対だめです、勝ちましょう」と言われた。
 ところが試合前のウオームアップで、2年生の選手が下級生に写真を撮らせている。「気の散るようなことするな」と言ったら「この試合で自分は死ぬかも分からないから、形見の写真を撮ってもらっているんです」と言う。ショックを受けた。僕が日本代表で戦ったとき、当時の指導者から「死ぬ気で戦え」とよく言われたが、30分、40分経ったら気持ちは冷める。でもその学生は「死んでもいい」と思っていた。
 その試合、体育大は日本一強いチームを圧倒した。指導者として大きな経験だった。選手はその気になれば富士山のようにそびえ立つ山でも崩せる。崩せないと思ったのは監督だけ。選手たちがなぜ死ぬ気になれたのか。それまでの指導は「やれ」「するな」とロボットを作っているようなものだった。就任5年目以降の選手たちは自分で考えて動くようになったのだ。ロボットは形見に写真を撮るはずがない。覚悟を決めてやるのはやっぱり人間。監督ではなくて選手が主役だと分かって、そういうチームができたと思う。
 体育大で36年間教え、行き着いた結論は「選手がいて監督がいた」。監督がいるから選手がいるわけではない。やめるときに選手たちに言ったことは「ありがとう、みんながいたから自分はおれたんや」。それが指導者としての最後の言葉です。(森野 茂生)


講師略歴(講演時)=1942年大阪市生まれ。京都府立洛北高校から同志社大学を経て近鉄(現近鉄ライナーズ)でウイングとして活躍。大学時代に2度全国制覇、社会人では4度日本選手権に優勝した。1968年の日本代表のニュージーランド遠征では、オールブラックスジュニア(23歳以下)を相手に4トライを上げ、「世界のサカタ」、「空飛ぶウイング・サカタ(FLYING WING SAKATA)」として、その名と俊足を世界に轟かせた。翌年、ニュージーランド・カンタベリー大学に留学、カンタベリー州代表、ニュージーランド学生選抜などに選出された。現役引退後の77年に大阪体育大学ラグビー部監督に就任、2013年から同ラグビー部エグゼクティブ・アドバイザー。大阪体育大学名誉教授。
この間、12年に国際ラグビー評議会(IRB)から、「国際ラグビー殿堂」競技者顕彰者に選ばれ、東洋人で初めてラグビー殿堂入りを果たした。現在、日本ラグビーフットボール協会理事(副会長)、関西ラグビーフットボール協会会長。