「美術館は時代によって求められる姿が変わる」「コロナ禍を経て既存の枠組みを否定せざるをえない」


定例会の模様をYouTubeにアップしました。

第276回 2021年3月26日
大阪中之島美術館初代館長
菅谷すがや 富夫とみお
「大阪中之島美術館、開館へ~新たな美術館像を求めた30年」
   

 「大阪と世界の近代・現代美術」をテーマにする大阪中之島美術館の開館が2022年2月2日に決まった。私は初代館長に就任してから1年半ほどだが、建設準備室に学芸員として着任してからは約30年。新たな美術館像を求め続けてきた。
 オープニングの展覧会は約6000点の収蔵品のうち約400点を展示する全館コレクション展を予定している。30年かけて収集し建物も完成したので、その報告会も兼ねた展覧会だ。その後、4月からはモディリアーニ展を開く。
 美術館は大阪大学の医学部があった中之島4丁目に立地する。医学部移転後に大阪市が新たな街づくりの場所にしようと考えた。市制100周年が近づいていたうえ、佐伯祐三の作品をはじめとする山本發次郎コレクションの寄贈を受けたこともあり近代美術館の構想が浮上した。1980年代から動き始め90年に準備室ができた。数年後には「未来医療国際拠点」も周辺に整備される予定で、このあたりの風景は一気に変わっていくだろう。
 美術館は5階建て。1階がショップやレストランとホール、2階がメインのロビーで、3階が収蔵庫。4階、5階が展示室となる。特別展や企画展を開く5階は天井高6メートルで約1700平方メートルと、かなり広い。今まで東京・六本木の国立新美術館の約2000平方メートルの展示室で開いた展覧会は、なかなかよそに巡回できなかったが、大阪中之島美術館のスペースなら受け入れも可能になる。外観は黒い箱が宙に浮くコンセプト。黒い壁4面のところどころがガラス面で、中から光が漏れるイメージだ。
 収蔵品は関西の前衛的な美術グループ「具体美術協会」創設者の吉原治良の作品約800点など、6000点を超える。佐伯祐三の「郵便配達夫」や福田平八郎の「漣」も収蔵している。モディリアーニの「髪をほどいた横たわる裸婦」は89年に19億3000万円で大阪市が購入した。地方自治体が購入した作品では一番高いのではないか。バブルのころに高額なものを買わされたのではないかと言われるが、5〜6年前のオークションではこの時代の裸婦の作品に200億円を超える値がついた。金額がすべてではないが、30年で10倍になっている。そう考えると90年前後に買えたのはとても幸運だった。ダリやバスキアなどの作品も高額になる前に購入できている。
 デザイン分野の作品も多く収集している。産業とともに大きくなった大阪の街を考えた場合、近代デザインの収集がふさわしい。19世紀後半から20世紀のウィーン工房やバウハウス、現代に至る家具や食器を収集してきた。閉館したサントリーミュージアム〔天保山〕からは近代から現代に至るポスターの一大コレクションを預かっており、世界のデザインミュージアムと比べても遜色ない。
 この30年間、ずっと同じことをやっていたわけではない。美術館は時代によって求められる姿が変わる。1983年に市制100周年記念事業の1つとして近代美術館構想が打ち出され、90年に準備室ができた。当時の計画では96〜97年には開館する予定だったと思う。しかしバブルが崩壊し。大阪市の財政事情も陰ってくる。国から購入した用地の発掘調査では土壌汚染がわかり、対策を講じているうちに市の財政状況がますます悪化し、建設計画がストップした。状況に応じて何回も計画を練り直してきた。

新美術館についての講演を興味深く聞く参加者


 3段階で計画に変化があった。まず80年代当時は日本の美術館の収蔵はまだ貧相だったので、新しい美術館はコレクションを充実させる方針を決めた。購入費は総額150億円に上った。延べ床面積も今の1万7000平方メートルより大きい2万4000平方メートルで大阪市の直営。隣には大規模オペラハウスも作って一大文化ゾーンにする構想だった。オペラハウスの計画などは廃止されたが、現在のコレクションの中核は初期の段階で収集できた。
 次に平松市政では市長から「早く美術館をつくりなさい」と言われ、規模を縮小することで計画を前に進めようとした。NPOと連携し、市民との共同運営を検討した。11年12月に橋下市長になると、美術館はいったん白紙にすると言われた。要はゼロから必要性についてもう一度考えなさいということ。その結果、必要性が認められ、整備計画が続行された。
 美術館は政治とまったく無関係ではできない。政治は市民の要求であり、それにどう対応していくかだろう。翻弄された30年というつもりはまったくなく、そういう風や波をどうやって形にするかだと思う。
 新しい美術館像としては、コロナ禍を経て既存の枠組みは否定せざるをえない。展覧会活動は絶対だが、その一方で、アーカイブ機能も充実させている。作家が書いた手紙や会場を借りたときの領収書など、作家やグループ、美術運動が成立したときの資料を収集して残すことが重要だ。それらを分析することで、違うものが見えてくる。各美術館で資料は持っているが、なかなか見るのが難しい。資料センター的なものが日本の美術館には定着してこなかったので、大阪中之島美術館は貴重な資料も手続きすれば見られるようにして共有するトップランナーになりたい。
 これまでの日本の美術史は東京美術学校を卒業した人が中心のヒエラルキー、一つの色がついてきた。しかし大阪には大阪の美術が江戸時代からある。例えば具体美術協会は東京の美術メディアにあまり大きく取り上げられなかった。メンバーで美大へ行ったのは2〜3人で、吉原治良はじめ独学が多い。それでも世界的な美術家になれるというのが大阪の美術の大きな特徴だった。視点を少し変えると、美術史が違うようにみえてくる。そうした展覧会や活動をしていきたい。
 連携による活動も重視する。学芸員は10人だが、外部の専門家と一緒にアーカイブや美術館教育も進めていく。美術館はプラットフォーム。多くの人が来て、何かを得て帰って行くようにしたい。アートを楽しむための基盤づくりをするのが美術館の仕事と考えている。
 コロナ下で、ネットで作品を配信する動きが広がっている。高精細できれいに見えるが、果たしてそれだけでいいのだろうか。過去に開催したコレクション展で、投票によって出品作品を決めたときに一番得票が多かったのが佐伯祐三の作品だった。「昨年亡くなった母と展覧会で見た」とか、理由は極めて個人的。鑑賞は美術史上での評価というより、個人的な体験と結びついている。美術館に来て見るのも重要な体験だ。一方でネットの配信がさらに進むと仮想現実(VR)の世界になる。現代美術ではデジタル映像の作品がどんどん出てきて、遠くない将来には目を通さず脳に直接訴える作品も現れるかもしれない。そうなったら、美術館という建物や組織はどうなるのか、ということも考える。
 美術館経営は非常に厳しくなっている。これまでは20万人、30万人の来場者で成立していた展覧会が、コロナが終息後もそのままか。多くの人が美術館にアクセスする権利は保証しないといけないが、観光として富裕層にどう訴えるか。これからの美術館像はその両立を考えることなどが課題になる。この次の30年も新たな美術館像を求めていかないといけない。(宮内 禎一)

ゲスト略歴(講演時)=1958年生まれ。明治大学大学院博士前期課程修了。90年財団法人滋賀県陶芸の森学芸員として就職。92年に大阪市立近代美術館建設準備室に学芸員として着任。2017年大阪新美術館建設準備室長、19年大阪中之島美術館館長就任。専門分野は近代デザイン史、美術評論(現代美術・写真)。準備室時代では展覧会「美術都市・大阪の発見」、「早川良雄の時代」を担当。ファッション・デザイン分野でも「大阪アジアン・コレクション」(2006年)のプロデューサーも務めるなど、アジアと大阪をデザインやアートで結ぶ活動も展開。共著「デザイン史を学ぶクリティカルワーズ」(フィルムアート社)