直木賞はオリンピックのようなもの。文学に関心のない人も関心を向けてくれる

第260回 2018年9月20日

直木賞作家
門井 慶喜かどい よしのぶ
「歴史に学ぶ」

 今年1月に『銀河鉄道の父』という、宮沢賢治のお父さんの目から見た小説で第158回直木三十五賞をちょうだいした。私がその渦中で思ったのは、直木賞というのはオリンピックだなということだ。普段はその競技にあまり興味がない人も関心を向ける。
 まず、菊池寛の話から。生まれは高松で、京都大学の英文学科に入学。卒業後、『恩讐の彼方に』や『忠直卿行状記』という作品を書いた。
純文学で名前が上がり、次に来るのは新聞連載の話。新聞連載は純文学ではない。これに手を出すということは、金のために芸術を捨てたという厳しい見方をされるが、菊池は気にしない。『真珠夫人』だ。


 菊池には大金が入り、雑誌をつくるときの原資になったのだろう。大正12年に『文藝春秋』を創刊。『文藝春秋』は今あるような総合雑誌ではなかった。最初はエッセイしか集まらない。書いてくれたのが芥川龍之介だ。芥川が書き下ろすのだから、人気があった。もう一つの読み物が直木三十五の文壇ゴシップ。これが当たった。
 直木は大阪生まれ。小学校のときの成績は毎年、1番。中学校へ進学。当時は、中学校へ進学するだけでもエリートだ。
 彼のお父さんは古着屋でお金持ちではない。長男の彼には、岡山の六高、帝国大学へ行ってもらいたいのが希望だった。ところが、彼は遊んでしまい、成績が追いつかない。結局、六高を受験をしないで、帝国大学に入れず、早稲田大学に入学。東京では大阪から追いかけきた女性と同棲生活を始める。彼のお父さんは貧しい中、仕送りをするが、当人は遊んでばかりで卒業もしない。
 その後、出版界に入った。当時、海外の著作物に関して、作家に印税を払わず、翻訳が出せた時代で、そこに目をつけた人のもとで『トルストイ全集』をつくる。トルストイなので売れるわけで、印税が入る。これも散財してしまう。
そういう生活の中で関東大震災が起きたので、妻子を連れて大阪へ帰る。彼の第二の関西暮らしが始まる。大阪には当時、プラトン社という出版社があって、雑誌などを出した。小説が欲しいなというときには、編集部員である直木が自分で書いた。
 なかなか評判がよく、短編が映画化されるということになり、京都の撮影所に入りびたるようになった。幸い、作品はヒットしたけれども、後が続かない。
再び東京へ戻り、菊池と再会。書き始めたのが、先ほど述べた文壇ゴシップ。直木は、2回失敗している。出版で失敗し、映画で失敗した。ここで、文筆一本に絞った。そうすると、これが三度目の成功になる。『南国太平記』は人気を博して、流行作家になる。菊池は直木を使いまくった。直木は、その全部にこたえた。
 もともと体の強い人ではなかったようだ。それが派手な生活をし、毎晩、徹夜仕事で体がむしばまれて結核にかかった。あっという間に流行作家になって、あっという間に体を悪くして、直木は亡くなった。
 芥川はその7年前には自殺している。直木が亡くなって、その翌年に芥川賞、直木賞が創設された。故人を顕彰ということであれば、芥川が亡くなった時点で芥川賞ができてもよかったのかもしれない。そうではなくて、菊池は直木が亡くなってからそれを思いついた。両賞の直接の契機というのは、芥川よりも直木の死だったのだろうと私は思う。菊池はそれだけ罪の意識を感じていた。「直木に申しわけないことをした」と思った。
 文学賞という名のオリンピックの騒ぎが当分は続くだろう。その歴史の末端に立たせてもらっていると考えると、歴史好きの私としては大変光栄だ。私も菊池寛ふうに、せっかく直木賞をもらったのだから、これを利用して次に何をしてやろうかと考えているところだ。  (湯浅 好範)

講師略歴(講演時)=1971年11月群馬県生まれ。同志社大学文学部卒。帝京大学職員を経て、2003年に「キッドナッパーズ」で第42回オール讀物推理小説新人賞を受賞し、本格的に作家デビュー。18年1月には、宮沢賢治を父・政次郎の視点から描いた「銀河鉄道の父」で、第158回直木賞を受賞した。

 美術探偵・神永美有シリーズ、エッセイ、評論、また「家康、江戸を建てる」(2016年2月)、「ゆけ、おりょう」(同8月)などの歴史小説と、著作のジャンルは幅広い。関東出身だが、歴史小説を書くために適している、として、妻の実家の大阪府寝屋川市で執筆活動を続けている。定例昼食会での質問に対し、「関西は、日本史におけるすべての時代がそろっている。古代は奈良、中世は京都、近世は大阪、近代は神戸。歴史が全部詰まっている感じが私にはとても大切。毎日、歴史を感じながら過ごすことができるのは大きな力だ。当分、引っ越すこともないだろう」と答えた。