焼け落ちても、天平の文化空間を再構築するという、多くの人の情熱により支えられてきた

第259回 2018年8月21日

興福寺貫首
かんす

多川 俊映
たがわ しゅんえい

「明治150年の興福寺」

 

 興福寺の中金堂の再建工事が進み、今年107日から落慶法要をさせていただく運びとなった。7回焼けた歴史を持つ中金堂にとっては8回目の再建。七転八起の運命と言えるかと思う。
 興福寺は710年(和銅3年)、藤原不比等によって創建された。「興福寺供養願文」には「和銅三年春三月、淡海公、勝区を占め以てこの伽藍を移す」とある。淡海公とは不比等。勝区は優れた場所という意味だ。710年は平城京遷都と同じ年。不比等にとっては遷都と興福寺創建はセットになった大きなプロジェクトであり、興福寺は新しい都である平城京を一望できる丘陵地に建てられた。

 以来、1300年を超える興福寺の歴史は焼失と再建の歴史だった。大きいもので7回、小さいものを入れると実に160回もの火事を経験してきた。最も大きかったのは1180年(治承4年)12月の平重衡による焼打ちだった。さらに盗賊の付け火、近隣からの延焼、落雷火事など理由はさまざまだが、この度重なる火事が「天平回帰」という興福寺の流儀を確固たるものにしたと考えている。焼け落ちても、不比等の時代の文化空間を再構築する。多くの人の情熱により、興福寺は支えられてきた。頻繁に襲う火事がなかったとしたら、興福寺は時代時代で形を変えていったかもしれない。
 中金堂は江戸時代の1717年に7回目の焼失をし、相当悲惨な状況の中で明治維新を迎えた。興福寺もこのときに起こった神仏分離、廃仏毀釈の動きに巻き込まれた。もともと興福寺は「春日社興福寺」として、いまの春日大社と一体で運営された歴史を持っている。神と言えば仏、仏と言えば神だったものが、国民的な議論も、民衆が納得する説明もないまま一夜にして別のものとされた。このことは日本人の宗教観に大きなダメージを与えるものだった。それでも興福寺は神仏習合を捨てることなく、この時代を乗り切った。周辺の仏像などには流出してしまったものもあったが、中心伽藍の仏像は流出することなく、守った。仏教には生きとし生けるものを指す「衆生」という言葉があるように、神道にも「八百万」という言葉がある。あらゆる存在に意味を見いだす考えがともに根底にあり、神仏とは習合するものだ。これも興福寺の流儀だと考えている。
 そして、今回の中金堂再建も「天平回帰」を意識したものとなった。私が考える天平を表す言葉は「端正」(格調の高さ)「典雅」(品のよさ)「剛勁」(力強さ)である。もう一つ挙げれば、一気に物事を進めるスピード感だろうか。難題だったのは高さ10㍍、直径83㌢という母屋柱をどう調達するかだった。国内でこれだけの材木はもうない。しかし、母屋柱は天平回帰のためにも、欠かせないものだった。幸いにして、同じサイズ、同じ強度を持つアフリカ材と巡り合えたことで、再建につなげることができた。天平当時の空間を、ぜひ中金堂で感じていただければと思う。(鈴木 光=前企画委員)

講師略歴(講演時)=1947年奈良県生まれ、69年立命館大学文学部哲学科(心理学専攻)卒。77年興福寺子院・菩提院住職、89年に興福寺貫首に就任。中金堂の再建(201810月落慶)はじめ、伽藍の復興に力を注いできた。法相宗の原理の唯識論や仏教文化論の研究で知られ、執筆活動、講演活動も活発に行っている。2016年からは法相宗管長を務める。仏教分野だけではなく、能や詩、音楽など関心はジャンルを超え、各界の第一人者との交流は幅広い。

 著書は「日本仏教基礎講座1奈良仏教」(共著、1980年)、「阿修羅を究める」(共著、2001年)、「いのちと仏教」(2005年)、「合掌のカタチ」(2012年)、「心を豊かにする菜根譚33話」(2013年)、「唯識とはなにか」(2015年)、「仏像 みる・みられる」(2018年)など多数。