象徴天皇制とは何かを お二人にお任せするばかりでなく 私たちが考える必要がある

253回 20171211

神戸女学院大学准教授
河西 秀哉 (かわにし ひでや
「メディアとともに創った象徴天皇制」

象徴天皇制の国事行為と公的行為の中で、被災地への訪問などは公的行為に入るが、実はこうした仕事は憲法には書かれていない。象徴としての地位に基づく公の行為として後々に増やされてきたものだが、今はこちらを中心的なお仕事としてわれわれが意識するようになった。メディアが積極的に伝えてきたことが影響している。
阪神淡路大震災の際、兵庫県西宮市の体育館を訪問されたお二人の写真は、私たちが思い浮かべる今の象徴天皇の在り方にぴったり合うと思う。(平成71995年)117日に発生し、31日に訪問されたが、昭和の時代、天皇が余震の可能性がある被災地に来られることはなかった。被害直後と復興後の2回訪れるというのが現在のスタイルになっている。もう一つ特徴的なのは、膝をつき顔を寄せられる姿。おそらく美智子皇后の影響があったのだと思う。
天皇陛下は皇太子時代の1986年、読売新聞に「天皇は政治を動かす立場にはなく、伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的立場に立っています」と文書で回答された。昭和天皇の戦後の全国巡幸は「引き揚げてきた人、親しい者を失った人、困っている人たちの所へ行って慰めてやり、働く人を励ましてやって一日も早く日本を再興したい」という意識に基づいており「苦楽をともに」とはちょっと違う。ただ、昭和221947)年の神戸女学院訪問の際には苦楽をともにされるような姿が報じられており、平成スタイルのある種の原型になったのかなとも思う。
ここ何十年かでメディアの伝え方は大きく変わった。戦後50年、60年、70年を経て戦争を知る人が減っている中で、「戦争の記憶を大事にされるお二人」をよりクローズアップしてきた。平成に入っての災害の頻発、お見舞いも大きなきっかけとなった。
(「平成流」の皇室報道が)メディアとともに築かれたということでは、昨年の問題は取り上げざるを得ない。天皇陛下は8月に生前退位のお気持ちを表明されたが、713日にNHKが報じたのは驚きだった。基本的にはご意向が既定路線なんだとこの時に印象づけられ、ある種の方向性を規定した。その後政府は有識者会議を開きヒアリングをしたが、世論もあって認めざるを得ない方向で、反対意見も聞いた上で特例法になった。皇室典範の改正は避ける、女性天皇・女性宮家の話はここでは入れないことになったが、象徴天皇制についてきちんと議論したかというと、そうでもないのかなという感じがする。
平成312019)年430日に退位され、私たちは近現代始まって以来の上皇を迎えるが、今後考えなければいけない問題もある。上皇や上皇后は公務を担うのか、被災地訪問をされるのかということはまだ決まっていないが、もしされるとメディアはそちらに注目し、天皇や皇后より目立ってしまう、よく言われる「二重権威」になってしまう可能性がある。女性天皇や女系天皇に関しては根強い反対論があるが、私は社会の変化に応じて認めるような議論をしていかねばならないのかなとも考える。
そもそも象徴天皇とは何か。平成は象徴を担っているお二人が一生懸命考えてこられて、われわれはそれを受け入れてきたが、お任せしているだけではお二人が大変だ。私たち国民がもう少し考える必要があるのではないかと思う。
(
内田 透)

講師略歴(講演時)=19775月、名古屋市生まれ。名古屋大文学部、同大学院文学研究科、京都大文書館助手(助教)などを経て、20114月、神戸女学院大専任講師、144月から同准教授。この間、歴史学者として象徴天皇制を一貫して研究してきた。08年歴史学博士。著書に「『象徴天皇』の戦後史」(講談社選書メチエ、2010年)、「明仁天皇と戦後日本」(洋泉社、16年)「皇居の近現代史 開かれた皇室像の誕生」(吉川弘文館、15年)「平成の天皇制とは何か 制度と個人のはざまで」(岩波書店・共著、17年)などがある。168月、天皇陛下が生前退位の意向を示した件について、象徴天皇制の専門研究者として活発な言論活動を新聞紙上などで展開し、NHKスペシャルなどテレビにもしばしば登場。象徴天皇制、天皇陛下の考え方や活動の意義などについて分かりやすい、優れた識見を示している。小学生の時、中日ドラゴンズの優勝パレードが、昭和天皇の容体急変で取りやめになったことから、天皇制に関心を持つようになったという。名古屋大時代に合唱に取り組んだ経験を生かし、日本の合唱活動の歴史についても研究している。16年には「うたごえの戦後史」(人文書院)という異ジャンルの著書も出した。