関西プレスクラブ設立30周年記念講演会「伝説の記者①」 野球史を語る 30周年講演会で 浜田昭八氏

※講演の模様をYouTubeにupしました。

阪神の日本一 「湯浅の1球」が分岐点

 昭和8年に生まれたから、昭八。昭和8年生まれの満90歳。卒寿は、卒業の「卒」と書くが、まだ人生は卒業していない。もうしばらく楽しく暮らしたい。

 ことしの日本シリーズは関西ダービーと言われたが、その前は、東京オリンピックの年(1964年)で、南海と阪神だった。勝った南海の鶴岡一人監督があまり感激した顔をせず、「巨人に勝った時ほどの感激はないな」と言っていた。

 ことしのシリーズで印象に残ったのは、「江夏の21球」ならぬ、「湯浅の1球」。3対3のまま8回、オリックスが、ツーアウト、一、二塁のチャンスをつかんだが、その時、阪神はリリーフに若い湯浅京己投手を送り込んだ。ことしは脇腹を痛めてほとんど活躍していない。その投手を大胆にも大ピンチで、岡田彰布監督は投入した。その初球でセカンドフライに終わり、これが分岐点になって、阪神に流れが傾いた。

 ただ逆に初球を打たれていたら、大胆に湯浅投手を送り込んだ岡田監督の評判は今と逆になっていた。監督にとっても人生を分けた1球ではなかったか。勝った負けたで人生が変わることを70年間見てきた。

 

オリックス初代監督の行方

  今も印象に残っているのは、オリックスの初代監督は、ひょっとして長嶋茂雄さんになる可能性があったのではないかということ。オリックスが阪急から球団を譲渡された時、宮内義彦オーナーが私に会うと言ってきた。一体、何十億円で球団を買ったのか、次の監督は誰だと、各社が宮内さんに競争で取材をしたが、口が堅くて何も言わない。言ったことは、阪急は西宮球場を使ってほしい、上田利治さんを監督にしてほしいということ。

 だけど何か刷新したいということで、監督は誰がいいかと聞かれた。そこで長嶋さんですよと私は言った。長嶋さんは野球は上手だが、指揮をとる才覚はあるのかと、世間は思っているかもしれないが、あの人は野球に関しては天才。フィジカル面だけじゃなく、野球をよく知っている。それに、あの人気を見逃す手はないと言った。

 後ほど、関係者から聞くと、長嶋夫妻と宮内夫妻が食事をしたと。うわっ、これは脈があるのかなと思ったが、なんと、土井正三さんになった。巨人の2番打者で活躍し、神戸に縁があり、立教大学の後輩でもあるということで、長嶋さんの推薦だなと。私に相談した結果だとうぬぼれていたが、宮内さんは当時の評論家の何人かに意見を聞いていたようだった。ちょっとがっかりしたが、印象に残っている。

ONは“異次元”

 3拍子そろったトッププレーヤーといえば、何と言っても長嶋茂雄さん。ただ、困るのは、あの人の話をメモにとって原稿を書こうと思っても、難解で分からない。たまに、江川卓の高めの球は跳ねてたねと、おもしろい表現をするが、通訳が必要になるような話をするのが長嶋さんだった。コーチがおもしろいことを言っていた。長嶋監督がリリーフで出したピッチャーがどうも頼りないと。長嶋監督が、これはきっと打たれるなと言いながら見ていて、やっぱり打たれたら、やっぱりなとコーチに言ってきたと。コーチは、分かっているならピッチャーを代えればいいじゃないかと、代えられるのはあなただけですよと、ここまで出たけど、言えないんだね。

 常人に理解できないのが長嶋さんだった。ただ、あの人は全部分かってやっていた。サードの守備で送球した後に手をヒラヒラッとやるのは魅せるためだったし、息子を球場に忘れていったほど忘れ物が多いというと、我々のインタビューの後も、ちゃんとグローブと帽子を置き忘れていく。長さん、忘れてるよという場面を見せてくれるようなサービス精神もあるおもしろい人だった。

 ホームランのナンバーワンは王貞治さん。驚いたのは、40歳近くで引退が近くなった時に、試合が終わってから荒川博コーチのところに行ってスイングをやって、その後、帰ってから食事になる。そんなに遅くに食事していいのか、水原茂監督はナイターの後は雑炊ぐらいにしておけと言っているよと聞くと、自分は普通に食べると王さんは言う。なんと驚くことに、酢の物、刺身、おでん、水餃子、ステーキ、仕上げはおかゆ。腰を抜かした。40歳近くで、しかも真夏の試合でプレーして、試合後のスイングをした後で。これはもう常人ではない、本当に宇宙人だと。

運命を変えた1本

 ホームランで印象に残っているのは、阪急との日本シリーズで打ったサヨナラスリーラン。阪急がツーアウトまでとったのに、長嶋さんのゴロがショートの横をスルスルと抜けてセンター前ヒットになった。ショートゴロで終わりだと思ったらスルスルと抜け、次の王さんにサヨナラを浴びた。

 長嶋さんのゴロの際、ショートが逆の方に動いてしまったという話があった。その後、ショートの選手はトレードに出されるわけだが、私は本人と話す機会があって聞いたら、逆へ走ったと言っている人はいるが、僕は逆に行っていない、ちゃんとゴロの方へ走ったと。長嶋さんのスイングを見て、てっきり三遊間方向に打つものとは思っていたが、そう見られてもしかたないと言っていた。

 あのゴロが野球人生を変えたねと言おうと思ったら、本人から野球人生が変わったと言った。彼はずっと気持ちの負担として持っていたわけ。王さんは868本のホームランを打っているが、1本のホームランが、投げた選手、守った選手の野球生命を絶つとた。

牛若丸 突き指のわけ

 ピッチャーでナンバーワンは、400勝した金田正一さん。という人が多いのではないかと思うが、私は399勝で終わっていたかもしれないと思っている。400勝目は、先発した城之内邦雄投手が、勝ち投手の権利を得る寸前まで投げているわけ。そのまま投げていれば城之内さんが勝利投手で、金田さんは399勝で終わっていたかもしれない。ただ、金田さんは義理堅く、ロッテの監督をした時に、ちゃんと城之内さんをスタッフに呼び寄せている。人情や義理を果たすのも野球界の慣例だと思う。

 守備に関しては、(「牛若丸」と呼ばれた)吉田義男さん。彼が引退してから、誰が一番うまいショートだったかと聞くと、本当は自分だと言いたかったのだろうが、悪いと思ったのか、いいときの石井琢朗だと言った。わざわざ「いいときの」という注釈をつけるところが、守備に自信のある吉田さんだと思った。吉田さんはキャッチボールから、ものすごく守備を意識していた。ボールを捕るのとスローイングは1つのことだから、キャッチボールからちゃんとやると。

 捕ってから早く投げようと、右手へ持ちかえるのを早くしようと思っているから、つい、右手の突き指が多かったと言っていた。私は若いころ、吉田さんによく似ていると間違われたことがあって、妙に親近感がある。

(板倉 弘政)