次の航海も考えている 100歳までは挑戦したい

240回 2016928

海洋冒険家
堀江 謙一 氏
「未知への航海」

 54年前のひとりぼっちでの太平洋横断航海から8年前のハワイから日本への波力だけでの航海まで、数々の冒険を重ねてきた。
 最初の航海は1962512日の夜、西宮のヨットハーバーを出発。紀伊水道から太平洋に入る。巨大な流木に見えた鯨との衝突を避けて日付変更線を越えるとアメリカ軍機に遭遇。大声を出して救助を求めていると誤解されないよう、機体に向け何度もシャッターを切る。遭難中に撮影でもあるまいと思ったのか、ようやく遠ざかる。
 出航2か月半、アメリカのパイオニアミンクスという船に出会う。「英語が通じるだろうか」という強迫観念があったが、デッキの船員に「日本からサンフランシスコに向かっている」と声をかける。食料や水の補給の申し出を受けるがここはやせ我慢。現在地だけを尋ねる。遠ざかる船を見ながら、2か月半ぶりの人との会話に胸が熱くなる。
 812日の日曜日にサンフランシスコ湾到着。国際法に従い黄色い旗を掲げると大型のヨットが近づいてきた。帽子を取って船長に伸び放題の髪を見せると、船長も帽子を取る。何とほとんど髪がない。陽気なアメリカ人と出会い、到着の実感が湧く。記者の英語での取材を切り抜け、総領事館に到着。バスタブに浸かりフワフワのベッドに横になると、深い海に沈んでいくように睡魔が襲ってきた。
 翌日散髪に出向く。新聞が「94日かけて日本からやってきた日本人青年はパスポート、英語力、そしてマネーの3つを持っていなかった」と報じていたため、理髪店の主人は金の受け取りを断り、おまけに5ドルの小遣いまでくれた。
 記者会見に臨む。「なぜ航海をしたのか」と聞かれ、「やりたいからやったんだ」と答えたのに、「そこに海があるからだ」と通訳されたのには驚いた。帰国費用も持たない私に航空各社が飛行機への搭乗を申し出てくれたおかげでヨットは売らずに済み、今も国立海洋博物館に展示されている。
 関大一高でヨットにのめり込んだ私の原点は、できるだけ高いハードルを越えること。世界一広い海を世界一小さな船で航海。足こぎボートでの航海。波力による航海。3度の世界一周もしかりだ。
 最初の西回り単独無寄港では、前の帆が落ちる事態に見舞われる。直すにはマストに登り切れたロープを滑車に通す必要があったが、ロープを通し降りる際にロープが右足に絡んでしまった。何とか外そうとするが力尽きて転落。ロープも滑車から外れた。翌日再びトライするが大きな波の弾みで海に転落。実はマストに登らずとも、前の帆を引き揚げる方法に転落して気づく。何事も苦労せずにアイデアは浮かばないものだ。2回目の縦回り世界一周では嵐でヨットが転覆。上を向いた排水パイプから海水が入り、沈むと思った所でまた波が来て一瞬で元に戻り難を逃れた。この経験がヨットは不沈構造にという教訓につながった。
 次の航海も考えている。100歳までは挑戦したい。さらに高い目標に向かっていきたい。海と山は同じ自然が相手だが、山への挑戦を続けている三浦雄一郎さんは5歳くらい年上だ。私も頑張っていきたい。(高橋 修)

講師略歴(講演時)=1938年大阪市生まれ。54年関西大学第一高等学校入学、ヨット部入部。
62年、19フィート(全長58㍍)のヨット「マーメイド号」で日本人として初めて単独無寄港太平洋横断に成功した。
ヨット仲間からも変人扱いされた準備段階から、困難と孤独の航海、快挙の達成までを記した著書「太平洋ひとりぼっち」は、63年に第10回菊池寛賞を受賞した。
その後も、74年に小型ヨットによる西回り単独無寄港世界一周に成功。82年、4年間にわたる挑戦の末に初の縦回り世界一周。
85年世界初の太陽電池によるソーラーボートでの単独太平洋横断。89年全長28㍍の超小型ヨットで単独太平洋横断。
93年世界初の足漕ぎボートでのホノルル沖縄間単独太平洋横断。96年にはアルミ缶をリサイクルしたソーラーボートでの南米エクアドル東京間単独太平洋横断。
99年、ビール樽とペットボトルのリサイクル素材の双胴ヨットでの単独太平洋横断。
2002年、ウイスキー樽、アルミ缶のリサイクル素材の「モルツ・マーメイド3号」での単独太平洋横断など、数々の冒険を続けている。
1964年イタリア・サンレモ市から「海の勇者」賞。74年朝日新聞社から「朝日賞」。エ
クアドル共和国政府は98年、ガラパゴス諸島バルトラ島の岬を「堀江謙一船長岬」と命名した。